<母性本能>という神話

近代以前、「愛情を持って母親に育てられた」子は稀だった。
18世紀、パリで1年に21,000人の子供が生まれた。そのうち、母親の手で育てられるのは、たったの1,000人だった。 住み込みの乳母に育てられる子供が1,000人、残りの19,000人近くが里子に出された。 9割以上の子どもが生みの親の顔を知らずに死んでいく。

パリの女性は、社交界での仕事に忙しく、育児に関する熱意は低かった。 社交界で華々しく生きることを要請された彼女達にとって、子どもは邪魔者でしかなかった。 パリでは、13世紀に乳母の紹介所が初めて開かれたが、この時代には乳母を雇うことができるのは貴族階級の家庭に限られていた。 国が豊かになるにつれ、ブルジョアジーにも、子どもを乳母に預けると言う習慣が広まった。 この時代の乳母は、住み込みではなく、地方に住む乳母に数年間赤ん坊を預ける「里子」方式が主だった。 18世紀には、都市に住む全ての階級に浸透し、乳母が不足するまでになった。 19世紀後半には、ブルジョア家庭の住み込み乳母が、実子を里子に出すようになるが、里子に出された子の死亡率は実に70%にも至った。

貧しい家の子たちにとって、田舎につれて行かれるまでの長旅は過酷だった。 ろくに覆いもしない荷馬車にすし詰めにされた赤ん坊と乳母は、その長い旅の間、雨や風にさらされた。 赤ん坊は、貧しい乳母に預けられ、疲れ切って栄養のない乳を飲むしかなかった。 荷馬車から赤ん坊が落ちて、車輪の下敷きになって死んだり、 7人預かったが目的地に着く頃には、6人になっていたり、 乳母が老婆で行き先を忘れてしまったりすることもあった。 運良くこの過酷な旅を生き延びられたとしても、生命の危険とはいつも隣り合わせだった。 貧しい乳母は病気であることもしばしばあって、母乳を通して赤ん坊に感染することもあったし、オムツも変えてもらえず、不潔な状況に放置されることもままあった。 さらに、たいていの親は、預けた子どものその後の人生に無関心だった。里子に会いに行く親は殆どいなかったという。

対して、母親が愛情をもって子供を養育する文化が広まり始めたのは、産業革命のころだった。 産業革命で成り上がった人々は、仕事の場を都市の中心部におき、郊外に住居を構えるようになった。 生活の場と労働の場が分離されたことに伴い、家事労働を担当する「主婦」が誕生し、彼女らは、子どもを慈しみ、育てることを始めた。 かつて、<小さな大人>と認識され、新たな労働力として活用されていた子どもたちは、生活の場に閉じ込められ、教育の対象となった。

日本でも、江戸時代には都市部では、「子堕し」と呼ばれる中絶が、農村部では、「間引き」と呼ばれる嬰児殺しが行われていた。 農村では自宅でこっそり出産し、畑の隅に埋める。近所の人は何も言わない。万が一、何か言われても「死産だった」とか「神隠しにあった」と答えればそれ以上追求する人はいない。 日本人が「母性本能」を信じ始めたのは、急速な近代化を目指した明治政府が「良妻賢母」を理念に掲げた時からだった。 戦後、高度経済成長期には、「男性は仕事、女性は家庭」という性別役割分業の意識と実態が一致するようになり、 母親が労働力の再生産(子を産み、新たな労働力として育てる、疲れて帰った夫を癒し明日の労働力を生産する)を一挙に引き受けることになった。 同時期に普及し始めたテレビを通して、「子供が3歳になるまでは母親が子育てに専念すべきであり、そうしないと成長に悪影響を及ぼす」という考え方が広まった。 この「三歳児神話」は、母親が育児をすることを正当化した。そして、それは、多くの人に「子供に何かあったら、母親が犯人だ」という意識を刷り込んだ。

このように社会構造の変化に伴って、母親のこどもに対する態度は変化してきた。 状況に合わせて存在したり、存在しなかったりする「母性愛」は本当に「本能」と呼べるのだろうか。


参考文献

エリザベート・バダンテール:『プラス・ラブ──母性本能という神話の終焉』(サンリオ,1981年)

プラス・ラブ―母性本能という神話の終焉 (1981年)

プラス・ラブ―母性本能という神話の終焉 (1981年)